葛城山に登りました
2/21(日)最高気温19度
5月並の陽気の中、ゴリモンと葛城山に登りました。
ルート
記録
朝9:30、長袖Tシャツ+ジャケットの格好で出発。
R309の登りですでに暑いです。
ウスイ谷線の入口地点で持参した半そでTに着替え。
それでも汗が出る。
ウスイ谷線入り口
ウスイ谷線は、ごく一部を除いて葛城山の山頂直下までコンクリ舗装されています。
頑張ったら山頂直下の売店までは全部オンザサドルでいけるんじゃね?
と意気揚々と出発しましたが、出発してすぐ枯れ枝で後輪を滑らせてこけそうになったので、押すべきとこは押す、に作戦変更しました。
ムリしたらあかん
登りはじめて体感40分ぐらいで、林道が左右に分岐します。
左へ。
ひたすら沢谷の方を辿ればOK
その分岐から約1kmほど進むと弘川寺から上がってくる登山道「弘川寺道」と十字に交差しました。
ここを右にとってウスイ谷沿いの道を上がります。
この写真左へ行くと弘川寺、右は葛城山山頂、まっすぐは行ったことありません。
弘川寺に下りる道
葛城山に登る道
ここまではほとんど乗車で来れましたがこっからけっこう急坂。
舗装路はクリート付きのシューズでは歩きにくいのでランニングシューズに履き替えました。
アシックスのターサージール。
ウスイ谷を右に見ながらどんどん高度を上げます。
途中、車止めの柵がありました。
これがなかったら車で山頂までいけちゃいます。
谷はやがて枯れ沢になり、消えていきました。
谷が消えるところはどこでもだいたい急坂になってます。
その急坂を越えると平坦地が現れました。
気分良く乗車で1kmほど走ると、再び急坂となり、最後の一押しをしたころで山脈の稜線を縦走するダイトレと合流です。
合流地点付近
ここから青崩に下りる道もあります。
緩い尾根をしばらく走り、山頂直下の売店到着。
数日前に降った雪が少し残っています。
階段を上って山頂到着。
林道入り口から1時間半ぐらいで到着しました。
持ってきたアンパンを食べて下山開始です。
林道なので下山は一瞬。
でも雪解け水が道に染み出していて自転車が泥だらけになりました。
ただいま~
林道とゴリモンのおかげで、歩いて登るよりだいぶ早く葛城山に登れました。
池上彰の世界の見方 朝鮮半島 を読みました
朝鮮と韓国はともに日本を悩ますやっかいな隣人、と思っている日本人は多いと思います。
でも相手をよく知らずに一方的に毛嫌いするのはよくありません。
それに、韓国人だからこうだ、朝鮮人だからあぁだみたいな誰かから吹き込まれた差別的偏見で物事を判断してもいけません。
彼らには彼らの文脈があり、それを知ったうえで自分で判断すべきです。
この本では20世紀初頭から現代までの韓国と北朝鮮の歴史を、日本、アメリカ、中国、ソ連との関係と絡ませながらわかりやすく解説しています。
これを読むとなぜ、韓国、朝鮮がこうなってしまっているのかよく理解できます。
朝鮮が独裁国家で、反対勢力を弾圧する悪の専制君主国家だというのはよく知られたことですが、韓国の近代史も負けず劣らず、現代の日本人からは想像できないぐらい血塗られたものでした。
そこには激しい権力闘争があり、権力者はすぐに敵を抹殺します。
40年ほど前まで大統領暗殺や大統領候補者拉致ということが実際に発生していたし、警官がデモ隊に発砲して死者数百人というようなことも1980年代までありました。
あまりにも経済発展が急すぎたので認識が追いつきませんが、朴正煕大統領が成し遂げたいわゆる「漢江の奇跡」の前まではカンボジアとかバングラデッシュと同じように世界最貧国の中の一つだったのです。
その朴正煕もまた、部下との晩餐会の最中にその部下に銃殺されるというドラマのような死に方をしています。
1979年のことです。
韓国は今ではかなり近代的な国になっているので、ほんの半世紀前までそんな戦国時代だったとは驚きでした。
21世紀になった今でもこの激しい権力闘争は続いていて、権力を降りたものは次の権力者から社会的に抹殺されるというのが普通になっています。
日本人からすると、韓国は非常識なことばかり言ってくる、という印象ですが、これは韓国人が悪いわけではなく日本と50年時間がずれているだけなのです。
今の韓国は日本の1970年代、安保闘争が終わってようやく落ち着いたころ、ぐらいの成熟度と思うべきです。
あと50年経てば今の日本人みたいに「まぁいーじゃん仲良くやろうよ」っていう国になるんじゃないかと思います。
千早峠を越えました
2/7(日)春の陽気の中、愛車ゴリラモンスーンと千早峠を越えました。
ルート
河南町→R309→水越トンネル→高鴨神社→一尾背神社→千早道→千早峠→千早林道→河南町
記録
9時ごろ出発して1時間ほどで水越トンネルを抜けて御所へ。
今からあの山を越えるんやで!
左 さんかう山 と読めるけどこの近くにそんな山あったかな?
増のお地蔵様にお参り
山麓線に入ってすぐ東に下って、歴史に彩られた集落の中を南進しました。
南基調で東へ西へジグザグしながらこんな細い農道をつないで進みました。
伏見の地蔵様と金剛山
左端が千早峠かな?自信ないけど
バブル時代のセドリックが二台たたずむお宅
全国にある鴨、加茂、蒲生などのカモと名のつく神社や土地の総社とされる高鴨神社。
カモとはカミの語源とも言われています。
縄文時代からこの地に住むカモ氏は、古来から祭りを執り行う司祭とされていました。
ここから全国に散らばっていったカモ一族が、各地にカモと名の付く神社を創建したそうです。
山麓線に戻り、久留野のバス停から西南に山を登ります。
こっから一尾背神社が一番しんどかったです。
一尾背神社(ひとおせ)。
天誅組が五條の代官所を襲撃する前に立ち寄ったと言われます。
ここから峠を目指すのが千早道です。
まずは急坂を登ってR310に合流します。
合流地点のヘアピンカーブの奥、フェンスの切れ間に千早峠への入り口がありました。
見落としそうなぐらい小さな看板です。
フェンスの切れ間から入るとそこはブッシュでした。
ブッシュを掻き分けるとそれらしきコンクリ階段が現れます。
コンクリ道は20mぐらいで終わり、そこからは登山道。
あまり人が入っている雰囲気ではありません。
登ってきたヘアピンを振り返る
こんな道を20分ほど進むと荒廃しきったコンクリートの林道に出ました。
ブッシュが蔓延っています。
林道を1kmほど上がったところで、左の尾根へ導く看板がありました。
わかりにくいですが、写真左方に尾根への取り付きがあります。
ここからは登山道になります。道は非常に緩やか、かつキレイでチャリの押し歩きがむちゃくちゃ楽!
久留野道とは大ちがい。
かつての河内-大和南部の峠越えのメインルートはこの千早道だったんだろうと思います。
意味もなくシダ
1時間ほど押し歩くとひょっこり千早峠に着きました。
目を瞑れば、天誅組の一行がここ千早峠を越えていく光景が浮かびます。
文久3年(1863年)8月17日、孝明天皇の大和行幸を機に大和の地に朝廷を中心とする新政府を建てようと企てた公卿の中山忠光、天誅組の吉村虎太郎など約300名が河内長野の観心寺を出発し、千早峠を越えて五條の代官所を襲撃しました。
天誅組の変です。
太平の世に突如現れた活動家から、大和の行政権を渡せ、と言われた五條代官鈴木正信とその家来は、当然拒否しあえなく処刑されました。
さぞ無念だっただろうと思います。
天誅組については「維新の魁」として賞賛する人がいる一方、原理主義のテロリストと評する人もいます。
それはさておき、河内に下ります。
この下りも緩やかかつキレイな路面で林道入り口ゲートまで一直線です。
大住谷道との分岐
千早林道入り口ゲート
千早峠、いい峠でした
移動図
高低図と心拍数変化
ではこれにて
逆説の日本史1 を読みました。
峠越えをしているので奈良を走ることが多くなりました。
奈良といえばやはり歴史です。
僕はこれまでろくに歴史を勉強してこなかったので、平城京以前の奈良の姿についてはまったく何も知りません。
せっかく奈良を走るのに予備知識がなにもないともったいないので↓この本を読んで勉強することにしました。
井沢元彦氏の本はこれまで読んだことがありませんが、アマゾンレビューを見ると賛否さまざまでした。
おもしろいとか、新しいとか、の好評がある一方で、決めつけが多いとか、思い込みが激しいとか、根拠に乏しいとか。
歴史学では、どんなに調べても議論を尽くしても結局タイムスリップできない限り真実はわかりません。
だからとんでもなく一般から外れた論を展開しても、それが論理的に整合性が取れているのならば、そして残されている資料と矛盾していないのならば、そしてそれを現代の差別と結び付けないのならば、どんなことを言っても自由だと僕は思います。
井沢氏の主張は、ところどころ飛躍があるものの、ドラマチックかつ説得力がありど素人の僕にとってはただただおもしろかったです。
たとえば、
出雲大社は国譲りを迫られたオオクニヌシの霊魂の牢屋である。
AD248年、皆既日食があったためヒミコの霊力に疑義が生じ、ヒミコは抹殺された。
宇佐神宮こそがヒミコ廟であり、ヒミコの霊魂がここに閉じ込められている。
伊勢神宮はヒミコを近畿で拝むために創られた拝殿である。
など。
日本史を見る時、これまでの学者に決定的に欠けているのは「霊魂へのおそれ」である。
というのが井沢氏の主張の根底にあります。
なぜそこに神社が必要だったのか?それは殺された敵の魂がタタリ神にならぬようお祭りするためである。
というのが氏の論理です。
恩智峠を越えました
2月に入って日によってはかなり暖かくなりました
ウチの家の梅もそろそろ咲き始めています
もうすぐ春です
冬装備では汗ばむ陽気のなか、ゴリラモンスーンと恩智峠を越えました。
ルート
河南町→石川サイクルロード→東高野街道→恩智神社→恩智峠→朝護孫子寺→国道25号→石川サイクルロード→河南町
記録
9時ごろ出発して石川サイクルロードを柏原まで。
そこから東高野街道を北上して恩智神社まで行きました。
途中で鐸比古鐸比賣神社という読み方のわからない神社の前を通りました。
ぬでひこぬでひめ神社と読むらしいです。
ぬでひこから2kmほどで恩智神社の参詣路に到着。
東高野街道からここを右に曲がって信貴山を越えるのが古道「恩智越え」です。
道の入り口のお地蔵様
きれいにしてもらっていますね
恩智神社は河内二ノ宮、つまり河内では二番目に位の高い神社です。
ちなみに一宮は平岡神社です。平岡神社もそのうちいかなきゃです。
参詣道を3kmほど上がったところに恩智神社があります。
階段を登ってお参りに行きました。
google mapより
神社に向かって左右に道が分かれています。
恩智越えは左にいきます。
ここからは舗装路の急登です。
徐々に道が狭くなり、しばらくして「自転車乗車禁止」の看板が。
仕方なく押して上がります。
舗装路が終わったところから階段の山道。
山道に入っても傾斜は緩やか。
担ぐ場面はまったくなく、すべて押し歩きです。
地面もきれいのでどんどん上がれます。
体感1時間ほどで恩智峠に到着。
ここから北に稜線をたどると高安山。
峠越えは直進です。
緩やかな下りなので乗車できます。
少し下ると平坦な台地に出ました。
山道を抜けると「のどか村」という農業公園があります。
google mapより、のどか村
この写真は西向きです。奥の看板を右へ
ここからずっと舗装路です。
5kmほど下り、最後ちょこっと登ったところに信貴山朝護孫子寺があります。
縁起は古く、西暦582年、聖徳太子が物部氏と戦った際に必勝を願って毘沙門天像を彫り、この地に納めたのが起源だということです。
かなり大きなお寺です。
「信貴山」というのは「高野山」や「比叡山」と同じように、山ではなくそこにあるお寺を指すのだと今日初めて知りました。
お寺に参詣しようかと思いましたが、自転車を停めておく場所が見つからず、かといって自転車を持って境内に入るのもはばかられたので、しかたなく素通りになりました。
ほんとうはお寺を通り抜けて裏手から旧ケーブル道に行きたかったのですが残念。
開運橋と呼ばれるアプローチ橋
橋からバンジージャンプができるらしい。
南側の車道から開運橋を望む。
ここから三郷町まで一気に下り、その昔「奈良街道」と呼ばれたR25を使って大和川沿いを柏原まで行き、石川CRで帰りました。
高低図
杉尾の巨石を見に行きました
和歌山県橋本市の杉尾地区にある不動山の巨石を見に行きました。
橋本市杉尾は和歌山県の最北東部の山の中にあり、和歌山、大阪、奈良の三国の交差点の和歌山側の集落です。
金剛葛城の山脈稜線を南に並行して走る麓の県道から、急な山道を上がったところに杉尾の集落があります。
こんなところに村が!?というような場所です。
人口統計を見ると約50人ほどがここ杉尾に住んでいらっしゃるようです
6人乗車のセレナのエンジンをうならせながら坂を上ったところに巨石観光者のための駐車場がありました。
急峻な山肌には柿畑が広がっていました。
駐車場の案内板
駐車場から100mほど歩いたところに明王寺というお寺があり、そこからまさに「真上に」という感じで尾根にまっすぐ階段がついています。
この階段を658段登るとそこに不動の巨石があるのですが、一番下の息子が車酔いして歩かなくなったので、おぶって迂回路から登ることにしました。
迂回路は階段を臨んで左へ進み、車道を300mほど上がってから山道に入ります。
山道を15分ぐらい登ると先ほどの階段と合流して大岩がありました。
この大岩には自然にうがかれた穴が開いており、穴に耳をあてて耳を澄ますと水が流れる音が聞こえます。
この音の風景は「日本の音百景」に選ばれています。
子供たちも上機嫌で耳をあてていましたが、なにも聞こえないといって文句をたれていました。
帰りは、下の息子が酔いから醒めて機嫌よくなったので階段で帰りました。
階段は思った以上に急峻でした。
子供を背負って突撃しなくてよかった!
岩よりもむしろ階段が印象的でした
筒井順慶のこと
次はどこの峠を越えようかな?と思いながら金剛葛城の登山地図を見ていたら、
岩橋山の東の尾根上に「布施城」という城跡があることに気づきました。
布施城の歴史をウィキで調べたところ、戦国時代にこの辺りの豪族であった布施氏の居城だったらしいです。
戦国時代に大和の地で活躍した筒井順慶が、大和の覇権争いでライバルであった松永久秀に居城の筒井城を攻め立てられた際に逃れたのがこの布施城だということ。
布施氏は大和の守護であった筒井氏の一派でした。
僕は奈良出身でありながら、戦国時代の大和の状況のことをなにも知りませんでしたので、この際この本を読みました↓
奈良は古くから興福寺や東大寺といった大寺の力が強く、室町時代にはそれらの大寺と、大寺が持つ荘園を保守する国人が治めていました。
そのため鎌倉時代から守護はおらず、伝統的に興福寺の別当など大寺のボス的存在の人が守護職についていたようで、戦国時代には筒井順慶の父、興福寺出身の筒井順昭が大和一円をまとめていました。
その筒井順昭は、息子の順慶が12歳の時に病で他界します。
すると、かねてから大和を乗っ取ろうとしていた松永久秀が動き始めました。
松永は居城であった信貴山城や、いまの鴻池陸上競技場の裏手の小山にあった多聞城から筒井一派の城を攻め始めます。
そして、織田信長や、関西のドン三好氏の力も借りて、筒井城ほか筒井氏の配下の武将の城を次々に攻め立てました。
筒井順慶はほうほうの体で逃げ込んだのが、冒頭の布施城です。
葛城市歴史博物館に布施城の復元模型があるのでかつての威容をうかがい知れます。
尾根に沿って縦長にべったりへばりついて何重にも曲輪がありいかにも要塞といった風情。
松永は、数度布施城を攻めたものの、結局、布施城を落とすことはできませんでした。
筒井と松永の戦いはその後も続きます。
大和の地のそこかしこで争い、東大寺を舞台にした戦闘では松永方が東大寺に火をつけ大仏殿が焼け落ちるという大損害も与えました。
最終的に二人の覇権争いは、大和における天王山とも言える「辰市の戦い」で雌雄が決します。
松永を破った筒井順慶は、勝利するとともに織田信長に恭順を示し、信長から正式に大和守護を任じられました。
一方の松永は、その後織田信長に恭順しますが、上杉謙信の上洛を見込んで、信長に反旗を翻し、怒った信長に責め立てられ、最後は信貴山城の火薬庫に火を放って爆死したと伝えられます。
織田信長の家臣団において、筒井順慶は明智光秀の部下の立場でした。
順慶が大和守護に任命されたのには光秀の力添えがあったため、順慶には光秀に対する恩義があり、秀吉が中国大返しで河内に戻ってきた際、明智光秀は順慶が見方してくれると踏んでいました。
しかし機を見るに正確な順慶は、光秀に恩義を感じながらも関西一円の武将が次々に秀吉につくのを見定め、光秀攻めこそしませんでしたが、光秀に援軍を送ることはありませんでした。
この時の順慶の行動によって、後世「日和見順慶」とか「洞ケ峠を決め込む」というどっちつかずの筒井順慶という評価が定着してしまうことになりました。