筒井順慶のこと
次はどこの峠を越えようかな?と思いながら金剛葛城の登山地図を見ていたら、
岩橋山の東の尾根上に「布施城」という城跡があることに気づきました。
布施城の歴史をウィキで調べたところ、戦国時代にこの辺りの豪族であった布施氏の居城だったらしいです。
戦国時代に大和の地で活躍した筒井順慶が、大和の覇権争いでライバルであった松永久秀に居城の筒井城を攻め立てられた際に逃れたのがこの布施城だということ。
布施氏は大和の守護であった筒井氏の一派でした。
僕は奈良出身でありながら、戦国時代の大和の状況のことをなにも知りませんでしたので、この際この本を読みました↓
奈良は古くから興福寺や東大寺といった大寺の力が強く、室町時代にはそれらの大寺と、大寺が持つ荘園を保守する国人が治めていました。
そのため鎌倉時代から守護はおらず、伝統的に興福寺の別当など大寺のボス的存在の人が守護職についていたようで、戦国時代には筒井順慶の父、興福寺出身の筒井順昭が大和一円をまとめていました。
その筒井順昭は、息子の順慶が12歳の時に病で他界します。
すると、かねてから大和を乗っ取ろうとしていた松永久秀が動き始めました。
松永は居城であった信貴山城や、いまの鴻池陸上競技場の裏手の小山にあった多聞城から筒井一派の城を攻め始めます。
そして、織田信長や、関西のドン三好氏の力も借りて、筒井城ほか筒井氏の配下の武将の城を次々に攻め立てました。
筒井順慶はほうほうの体で逃げ込んだのが、冒頭の布施城です。
葛城市歴史博物館に布施城の復元模型があるのでかつての威容をうかがい知れます。
尾根に沿って縦長にべったりへばりついて何重にも曲輪がありいかにも要塞といった風情。
松永は、数度布施城を攻めたものの、結局、布施城を落とすことはできませんでした。
筒井と松永の戦いはその後も続きます。
大和の地のそこかしこで争い、東大寺を舞台にした戦闘では松永方が東大寺に火をつけ大仏殿が焼け落ちるという大損害も与えました。
最終的に二人の覇権争いは、大和における天王山とも言える「辰市の戦い」で雌雄が決します。
松永を破った筒井順慶は、勝利するとともに織田信長に恭順を示し、信長から正式に大和守護を任じられました。
一方の松永は、その後織田信長に恭順しますが、上杉謙信の上洛を見込んで、信長に反旗を翻し、怒った信長に責め立てられ、最後は信貴山城の火薬庫に火を放って爆死したと伝えられます。
織田信長の家臣団において、筒井順慶は明智光秀の部下の立場でした。
順慶が大和守護に任命されたのには光秀の力添えがあったため、順慶には光秀に対する恩義があり、秀吉が中国大返しで河内に戻ってきた際、明智光秀は順慶が見方してくれると踏んでいました。
しかし機を見るに正確な順慶は、光秀に恩義を感じながらも関西一円の武将が次々に秀吉につくのを見定め、光秀攻めこそしませんでしたが、光秀に援軍を送ることはありませんでした。
この時の順慶の行動によって、後世「日和見順慶」とか「洞ケ峠を決め込む」というどっちつかずの筒井順慶という評価が定着してしまうことになりました。