承久の乱 を読みました
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に影響されて本書を読みました
鎌倉時代ってちょっと他の時代に比べて影が薄いというかなんかあまりよくわからない、っていうのか正直なところで、あまり今まで興味を惹かれることはなかったのですが、三谷幸喜はすごいです
みごとにはまってしまいました
本書は鎌倉時代の成立から承久の乱までの歴史を、細かい資料を読み解きながら素人にわかりやすい読み物にした本です
承久の乱なにそれ?
レベルの僕でも十分に歴史を追体験させてくれる良書です
本を読んだところでどうせ一年もたてば承久の乱がなんだったか忘れてまうので備忘録的に記録を
承久の乱とは、ざっくり言えば北条義時、泰時が率いる関東武士団と、後鳥羽上皇率いる貴族+京都周辺の武士団の戦いです
結果は関東武士団が圧勝して、その後武士の時代になりました
戦いに明け暮れてきた関東の武士と、都でのほほん暮らしてきた貴族や警備中心の関西の武士ではそもそも気合がちがいすぎました
それに数も違いすぎました
関東2万に対して関西1700ぐらいです
なのであっけなく勝負がついてしまいました
それまでは皇族を中心とした貴族の世の中だったのです
なぜ貴族が偉かったかというと、貴族は偉い、という自他ともに認める謎の共通認識があって誰も本格的には反抗しなかったからです
そのエスタブリッシュメントに武士が本格的に反抗し、反抗した貴族を処罰、あるいは処刑し、武士が貴族を管理監督する時代を幕末まで続けることになるそのスタート地点がこの承久の乱でした
それにしても鎌倉時代の武士っていのはかなり狂っています
簡単に人殺しすぎ
まるで北野武のギャング映画のようです
そして彼らのインセンティブは所領の獲得だっていうのだから怖い話です
名こそ惜しけれ
なんていうのはただの詭弁ですね
彼らのモチベーションの源は暴力団の縄張り争いに近く、北条氏はさしずめ日本統一した暴力団の親玉、っていうイメージじゃないかと思います
大河ドラマの後半が楽しみです
できれば大河史上稀にみるヒールに書ききってくれれば嬉しいのですが、まぁ大河なのでそうはいかんか
アワイチ二週目 その二
アワイチ二週目その二
室津のお宿を出たのは6時ごろ
すぐ近くのファミマで安モンのパンをコーヒーと一緒に二つ腹に入れて出発
まだ朝は涼しくて岩屋までの20kmは苦も無くさらっと移動
8時前に岩屋のサービスエリアで軽く休憩
っていってもまだ店は開いてません
大橋とその向こうに見える明石の町を眺めながらボケっと過ごす
30分ほどボケっとしてから洲本に向けて出発
昨日とはうってかわって晴天
そしてこれはこのあとの気温の爆上げを示します
岩屋を出てすぐのとある場所
ここは去年シュワルベのチューブレスタイヤを破裂させた忌むべき場所です
なんとなく路面を見ながら慎重に漕ぐ
ここから東浦の自転車屋までの5kmを汗だくになりながら押したのを思い出す
5kmは歩いたら長いけど自転車でもそこそこ長いな~
志筑あたりのファミマで最後の休憩をして洲本にGO
11時ごろ洲本に到着
洲本のイオンのはなまるうどんで坦々うどんというのを食べました
これがなんかむちゃくちゃうまかった
マクドでゆっくりしてから洲本城に行きました
洲本の町から遥か見上げるところに洲本城はあります
なのでそこまでの道のりはなかなかの劇坂
すごい熱気の中をヒイヒイいいながら到着
見事な石垣の上に昭和初期に建てられたちょっとファニーな感じの天守閣がちょこっと乗ってます
そしてその天守閣足元のベンチからの景色は超絶絶景
こんな見晴らしのいい城跡は日本広しといえど他にないんじゃないか
ベンチに座ってしばし読書
読書してると眠なってきたからベンチでちょっと昼寝
起きて洲本の町に降りて東光湯という銭湯に行きました
昭和の香りがプンプンする商店街の中にあるこれまた昭和感200%の銭湯
お湯が熱めであんまりゆっくりできず、ちょっと呼吸困難になりつつ辞去して
マクドで時間作りつつ7時の洲本ライナーで帰阪しました
アワイチ二週目 その1
2022/7/25-7/26アワイチしました
二回目です
前回は6時出発して一日で一周しましたけど今回はのんびり一泊旅行です
正直これぐらいがちょうどええわ
今回は深日港から洲本港への直行フェリーが再開されたので深日フェリーで行きました
このフェリーは洲本ライナーと言って以前はデイリーで運行されていましたが、不採算から廃止され、その後週末だけの試験運行が昨年始まる予定だったのがコロナで中止になり、やっと再開されたのが昨年10月。しかし試験運行が元々昨年11月までだったためたった一カ月で運行は終わり、その後無期限休止となっていたものが、この7月から試験運行再開となったものです
運賃たったの1500円
自転車は300円
やっす!
そして僕が乗った7/25 8時深日発便というのがその再開第一号
運行前には地元の代議士っぽい人達が数名記念式典をされていました
8時に出航
1時間で洲本到着
むちゃくちゃ便利
ただしちょっと酔った
洲本側ではミス洲本のお姉さんからオニオンスープをいただきました
ゴリモンちゃんを組み立てていざ出発(乗船時には前輪を外す必要あり)
由良までは平たんな海岸道路
淡路から由良までのこの一帯が淡路でいちばんええとこかも
由良を過ぎると立川の峠
湿度の高い熱帯性峠です
峠を越えると交通が少ない海岸沿いの美しい道を進みます
南に見えるのは国生みの記で日本列島のはじめのはじめとされる沼島
沼島渡船乗り場を過ぎたあたりから次の峠
灘の峠です
余裕があれば遠くまで見渡せてしんどいながらも気分のいい峠です
これを超えてすぐに始まる次の峠
福良の峠です
峠の頂上近くに岩屋から75kmの看板があります
岩屋スタートの人にとってはちょうど半分地点
この峠を下ると南端の中都市「福良」です
時間がだいたい12時だったので昼飯にしました
っつってもスーパーで出来合いの冷やし中華と柚子大豆プリンとポカリを買ったのみ
それをベンチで食す
柚子大豆プリンが秀逸すぎてビビりました
これを食べるためだけにもう一回淡路に来たいと思えるほど
ベンチに座ってるとポツポツ雨が降ってきたので道の駅福良に移動します
雨予報じゃなかったのにな~
この50mほどの移動中でポツポツがジャジャぶりにかわりました
道の駅の外にある大屋根に避難するとなんとそこには思いがけず無料足湯がありました
裸足をつけるとこれもはや天国
屋根の外では熱帯性スコールが降り続いていますがこちとら天国です
ちょっと遅くてもちょっと早くても出会えなかったこの僥倖
すごいツキや
雨雲レーダーを見るといったん止んでから15分後に振り出すってことでしたが、
15分後の雨は長引きそうだったので、雨の切れ間に出発しました
出発してすぐに登場するのが四つ目の峠
湊の峠
この峠の頂上付近で次の雨雲に遭遇
下りは「ど」スコールになって雷まで鳴り出しました
たまらず廃業したホテルの軒を借りて雨宿り
カリカリカリ ドカーン!
近くで雷が落ちたみたい
30分ほど雨宿りして雨脚が弱まったころあいで出発
西海岸は車が多く、道も狭いので快適度は東海岸には及びません
雨も降ったりやんだりでいろいろ消耗しつつ5時ごろ室津の宿に到着
チェックインしようかと思いましたが、一回チェックインしたら出るのがめんどくなりそうなので
晩御飯探しに行きました
ただ、この辺の食堂は5時に閉まるところが多く、消去法でお好み焼き「仁」にご入店
意外と言ったら失礼だけどここのお好み焼きセット(お好み焼き、ご飯、みそ汁)800円はかなり美味しかったです
しかもサービスで、室津でしか採れないという貝(名前忘れた)までサービスでいただきました
大雨に降られたけどカッパを来ていたので被害はそんなありません
天気予報は大外れでしたけど、そもそも大雨って知ってたら来てなかった
まぁ外してくれてよかったです
この旅なにかとツイてるなぁ
チェックインしてお風呂入って就寝
どうで死ぬ身の一踊り を読みました
西村賢太の「どうで死ぬ身の一踊り」を読みました
角川文庫バージョン
「墓前生活」「一夜」の二つの短編も収録されています
ざっくり言うと、
西村賢太は、縁もゆかりもない大正時代の小説家藤沢清造に偏執的に傾倒していて、彼の没後数十年が経った現代に、勝手に周忌記念式典をしたり全集発刊を企てたりします
その間に、同居する女との、これも偏執的に変質している慕情があり、いざこざがあり、借金があり、DVがありと大正期ではいざしらず、現代ではあってはならない異常な日常を綴った私小説です
内容がかなりサイコで、普通なら投げ出すとこですが、
とにかく筆力がすごくて没頭してしまいました
収録されている二つの短編も圧力がすごい
尋常な情熱を圧力釜で圧して高温高圧の中毒性執念に変形させているかのようです
すごい作家です
今年二月に亡くなってしまいました
素晴らしい読み物を遺してくれてありがとう
大台ケ原に行きました
東大台周回コースに行きました
駐車場ー日出ケ岳ー正木ケ原ー尾鷲辻ー大蛇倉ーシオカラ谷ー駐車場
台風が来てるし、コロナだし、でむちゃくちゃ人が少なかったです
出会ったのはたったの二人
駐車場もガラガラ
雨が降ってるようで降ってない、今にも降りそうで降らない
おかげで台高らしいもやぁっとした景色の中の高原歩きができました
晴れよりも靄が好き
ライオン25年目のただいま を見ました
インドの貧困地域で生まれた少年(6~7才に見える)サルーが主人公
ある日一緒にいた兄とはぐれ、そのまま誤って電車に乗ってしまい、1600km離れたカルカッタでストリートチルドレンになってしまう。
流転して孤児院にたどり着いたところ、幸運にも偶然オーストラリア人の夫婦の養子にとってもらえることになった。
自分の生まれた町の名前すら知らない彼だったが、タスマニアで何不自由ない生活を送っていた30歳を越えたある日、グーグルマップの写真から自分の生まれた家を発見する
25年ぶりに故郷に帰った彼は、そこで帰りを信じて待つ母親と再会できたのだった。
という感動でしかない映画
貧困生活の描写にリアリティがあった
とは言っても、貧困生活のことを僕はよく知らないが
物語の最後、サルーが故郷に帰ったところがクライマックスである
貧困国の最貧困層出身の彼が、優しい先進国の夫婦にたまたま選ばれ、愛されて育ち、そして幸運にも故郷を見つけ出し凱旋する
彼はおそらく家族を連れてオーストラリアに戻るのだろう
だって、一度先進国の豊かな生活を知ってしまったらいまさら電気がないところに住めないからね
でも、幸運な彼らは脱出できても貧困窟は依然として残り、残された人々は電気のある生活を知らずに一生を終える
それでいいのか?
そこんとこはスルーでいいのか?
この世界には歴然たる貧富の差がある
下の階の人間は、上の階の生活を知らないほうが幸せ、なのだろう
サルーは上に上がってしまった
だから下には戻れない
僕だって、上であると同時に下でもある
でも上のことはよく知らない
だから幸せ